ふと気がついて冷めてしまった紅茶を飲み干した。時計を見れば午前3時を示している。
開きっぱなしのノートパソコンはデータベースソフトが開かれたままカーソルが点滅しているが、続きはろくに入力されていない。

「いけない…」

せっかくさつきちゃんに教えてもらって選手のデータを入力するようにしたのに、これではまるで意味がない。慌てて入力に取り掛かろうとして、机の横に投げ出していた携帯電話が光っているのに気付いた。拾い上げて見てみるとほんの少し前にメールの着信があったらしい。マナーモードにしていたけれど、バイブにすら気付かなかった。

『起きているか?』

件名もないたった一言の意味深長なメールに非常識な時間だなどと思いつつ起きている旨を返信した。返ってくるか怪しいメールを待つ間にノートパソコンに改めて向き直る。しかし返事はすぐだった。

『今から出かけよう』

早朝にもならない内から一体どこに行こうというのだろうか。カツン、と窓が鳴る。ポルターガイストでもあるまいに何だろうと窓際に立つと黒く小さな影が見え再度窓が鳴った。石か何かが投げられたらしい。思わず窓を開けて外を見ると冷え切った外気が部屋に侵入してくる。この部屋の下に当たる道で、その寒さ故か白い息をする華奢な影が見えた。本当は少なくとも平均であって華奢などではないはずのその人影に、しかし溜息すら出ない。慌てて窓を閉めコートを引っ張り出す。パソコンの電源を落とし、一目散に部屋を後にした。







玄関を開けると先程まで影のようだったその人は目の前に移動していた。

「やぁ、。」
「やぁ、って、赤司くん、どうしたの…」

そう、赤司 征十郎。彼は当然だろうといわんばかりに笑ってこちらに手を差し出した。全く意味が分からない。

「こんな時間までマネージャー仕事か。熱心だね」
「そ、そういう訳じゃ…」

気付いたらぼーっとしてそれは無為に時間を食っていただけだ。口が裂けてもそんな失態の事は話せない。差し出された手にとりあえず手を重ねる。思わず手を引きそうになるほど冷たい手がしっかりと私を掴んだ。

「へぇ、温かいね」
「赤司くんの手が冷たいんだよ。どれくらい待ってたの?」
「ふむ…そうだな、ここでは30分くらい」
「30分も!?」
「声が大きいよ、

思わずう、と口篭った。あくまでも草木も眠る丑三つ時の頃なのだ。しかし叫びたくもなる。私は大切なこの人を寒い中30分も待たせていたのだ。いや、待ってほしい。赤司くんは「ここでは」30分と言ったではないか。

「ここでは、という事はここ以外にどこかで時間でも潰していたの?」

恐る恐るといった口調で尋ねると、彼は実にけろりとした顔でそういう事じゃないよ、と優しく返してきた。どういう事か分からない。

「とりあえず行こう。さすがに留まっていると僕も寒いからね」
「ご、ごめんなさい」

赤司くんに手を引かれて足を出す。「あ、」家の鍵閉めなきゃ。







繋いでいる内に温かくなってきた赤司くんの手を気にかけながら、ただ並んで道を行く。行き先は皆目見当がつかないけれど、駅前に出てきたので活気とは似ても似つかないちょっとした騒がしさに迎えられている。まさか電車に乗ってどこかに行こうという訳でもない、始発まであとどれだけ待てばいいのだろう。

「少し寄り道しようか」

足取りに迷いなく24時間営業のカフェに吸い込まれる。寄り道というからにはコーヒーを飲みに来た訳でもおしゃべりに時間を割きたかった訳でもないようだ。どれがいい、とメニューを見せられてつい素直に選んでしまう。さすがにブラックはきついし、なんて気分を軽く適当なものを指差すと、赤司くんがスマートに頼んだ。
ゆったりとしたソファに落ち着くと赤司くんは楽しげに口を開いた。

「如何してこんな事になっているのやら、といったところかな」
「うん。そうだね」
「何故だろうな」

お客もまばらだからか注文したものはすぐに運ばれた。だんまりになって間が出来てしまったので、頼んだカフェラテに手を伸ばす。優しい口当たりに何となくほっとした。赤司くんも心なしか安らいだように見えた。

「特にどうかした訳ではないんだ」
「うん」
「ただ、何となくに会いたくなってね」
「…そう、ですか」

随分あっさりと気恥ずかしいことを仰ってくださるものだ。言われた私は少なくとも恥ずかしい。それでね、と彼は続ける。

「どうせなら夜明けでも見ようかと思ったんだ」
「夜明けを?」
「そう。目が覚めてしまったから」

それが本当の理由か、と小さく笑った。しかし眠りが浅いのはあまり良くないことだ。それにしても急にどうしたものだろう。目が覚めたからと言って夜明けを見ようなんて発想が彼の中にあるとはやはり思えない。誰から何を吹き込まれたのだろうという邪推が脳裏を過る。

?」
「え、な、何…?」
「早く飲まないと、冷めてしまうよ」

そんなつもりは全くなかったのだけれど、つい考えることに沈んでしまった。赤司くんはあくまで優しく笑っている。

「もう少ししたら行こう。暖まれたか?」
「赤司くんこそ暖まれたの?待たせてしまったし…」
「その前から歩いていたからね。君に待たされたからではないよ」
「そうだとしても」
、見ての通り問題ない」

結局その一言で決着がついてしまった。どんなに心配しようと大丈夫である事は様子で分かるのだから反論のしようもない。赤司くんは分かればいいのだと肩を竦めた――ひんやりとした、思案の顔付きで。何をお考えなのだろう、この小難しい彼は。
それから、それでも30分ほどくつろいでカフェを後にした。赤司くんの考え込んでいるような顔は変わらなかった。同じように、たかだか数十分潰した程度で外気温に変化はない。むしろ朝に向かって一層低くなっている気がした。寄り道前のように手を繋がれてまたどこかへと歩き出す。

「赤司くん、どこに行くの」

そろそろ教えてくれてもいいだろうという拗ねた思いが出たか、少し憮然とした言い方になってしまった。半歩と差がないように気を遣って歩いてくれている赤司くんはしかし気にもかけない様子で私の方をちらりと見た。

「着けば分かる」
「それはそうだけど…」

それより他に赤司くんが紡ぐ言葉はない。あまりにもヒントがないのだから、察しろ、という話でもないようだ。やはりただ並んで歩くしか答えを知る事は出来ないのだろう。
寒々しい、人のいない街をただ歩いていると色々と考える。考え、というほどの事もない瑣末な事しかないのだけれど。中学の時のこととか、やっぱりバスケのことだとか、今はみんなどうしているのかなんて思う自分がいる。隣で繋がっている赤司くんはどんな事を考えているんだろうか。
ふと意識を道に戻してそれからようやく気付く。今歩いているのは、毎日通い間違えようのない通学路。少し驚いて赤司くんを見ると珍しく楽しそうな顔で見返された。このまま学校に行くのだろうか。夜明けを見ると言っていたのに、学校に行ってどうするというのだろう。







立ち止まったのは校門の前だった。白み始めた中にただ建つ校舎。無論校門は固く閉ざされているけれど、赤司くんは立ち往生もせずにあっさりと門を乗り越えてしまった。つまり不法侵入だ。門の向こうでは彼が動じることなく「おいで」と手を差し伸べている。

「わ、私も乗り越えるの…?」
「当たり前じゃないか」

そう言われると当然であるような錯覚を抱きそうになるけれど、決して当たり前ではない。とはいえ赤司くんに逆らえるほど我は強くないので、その手を借りて共に不法侵入することを選ぶより他なかった。
誰もいない学校は静まり返っていて威圧的ですらあった。校舎は施錠されているしどうするのだろうと訳も分からず頼もしい背中に着いて行く。目的地はどうやら体育館らしい。体育館から夜明けなんて見えるのだろうか。第一、もう明けているのではないだろうか。小鳥が啼き白みゆく空を見上げながら疑問に思うもそれを告げる事はしない。それもきっと行けば分かると一蹴されると思ったのだ。
迷いのない歩調が次に止まったのは確かに体育館の入り口だった。ガラリと響く音を上げ、重い扉は開かれた。部活の朝練があるからか体育館には施錠されていない事が多いのを思い出す。赤司くんは親しんだバスケコートではなく2階へ進む。追いかけて階段を上がる。

「さぁ、着いたよ」

目に飛び込んできたのは、赤司くんが背にした窓の向こう。

「…わぁ……」

軒並みな言葉しか思い浮かばなかった。綺麗。白んだ空と形容するのは正しくなかった。地平線から広がる日の色と、夜の抜け切らない薄紫の層、そして宇宙から色を取った青。3色のグラデーションが輝いて見える。目にも鮮やかな“夜明け”の光景。見慣れた校舎もグラウンドもまるで別世界のような佇まいだ。

「素敵な夜明け、だろう?」
「びっくりした。」
「そうか。それはよかった」

赤司くんは眩しげにもせずただ静かに微笑んでいた。これを見せてくれようとしたのだろうか。まさかキセキの世代の主将だった彼が、開闢の帝王・洛山の主将たる彼が?

「…正解だったな」
「ん…どうしたの?」
「いいや、なんでもない」
「そう? …あ」
「「あ。」」

赤司くんの視線の先を追った訳ではなかったけれど、反対側を見て思わず声を出してしまった。見知った顔が3つ並んでいる。“無冠の五将”の3人がこそこそとしているという奇異な光景は日の光を受けて目立っていた。赤司くんが日の昇る窓に背を向けていたのは、何の事はない、あの3人への牽制だったのだろう。赤司くんの溜息のような息が抜けるのに合わせたように、玲央さんが困ったように頭を抱えた。

はどうせ僕が自発的にしたとは思っていないんだろう?」
「…そうだね」
「僕がに会いたかったところまでは僕の意思だ」

恥ずかしい。1人で聞かされるのだって赤面必至なのに、ただでさえ音の響く体育館であの3人にまで聞こえているのだからとんでもなく恥ずかしい。けれど、それ以上の部分は彼らによって構成されたという事なのだと思うと恥ずかしさでは済まなくなった。

「君を待っての30分ではなくて彼らを待っての30分だったよ。」

要約すれば目が覚めてしまった赤司くんは散歩でもないけれど当て所なく歩きに出て、私が起きているらしい事を知ったという。そこで深夜にも拘らず無冠の五将(というか玲央さん)に連絡を入れるというまさかの暴挙に出た。私もメールに気付いてからはすんなり出てきてしまったので、赤司くんの暴挙は活かされることになったのだそうだ。聞けば余計に羞恥で苛まれるけれど、その語り口が淡々としていたからか感覚が狂っていく。

「しかし随分あっさりとに気付かれてくれたね」
「征ちゃんがこっち見てるからいけないのよ!」
「へえ。今後の参考にするよ」
「今後もあるの!?」

崩れることのない態度はさすがといえばいいのだろうか。赤司くんはこちらを向いてまた手を差し出した。

「帰ろうか。明けたからね」
「あ、赤司くん」

差し出されたまま止まってしまった姿勢に申し訳ないと思いながら、ぎくしゃくしながら頭を下げる。赤司くんも、玲央さんたちも何も言わない。

「ありがとう、嬉しかったです」

それだけ言って頭を上げようとしたら、頭を押さえつけられた――否、撫でられた。頭を撫でられるなんて高校生にもなってされる訳がなくて、どれくらいぶりの事だろうか。普段は力強くも繊細な手を、私が独り占めしてる。上から、なめらかに紡ぎ出される声を愛おしく思った。

「そう思ってくれたなら僕も嬉しい限りだよ、

対等な言葉で手は離れた。顔を上げると赤司くんは改めて手を出してくれる。場を制したのは帰ろうという些細な言葉だった。


君の手を握りしめて