背中ならここ数時間暖かいままだ。手にした文庫本に章の区切りがついたところで残りのページをざっくりと確認すると、あと数十分するかしないかで読み終わることが予想される程度の厚みでしかなかった。自分の右側には読み終わった文庫本が2冊置かれ、左側には手付かずのハードカバーがあと3冊。体勢を変える事を許されない以外全く読書の障害がなくなったこの数時間を振り返るまでもなく考える事は一つだけ、はたして持つだろうか。このままでさらに何時間経つか想像がつかないので装丁だけのハードカバー3冊という残弾は心許ない。先の未来が見えない凡人としてはそんな事を考えるだけ無駄なので、頭の中が多少リフレッシュする程度他事に気を取られたところで眼前に広げたままの文庫本次章の文章を追いかけ始めた。ミステリに区分されるであろうこの推理小説は語り口と結末の意外性が好きで続きが気になって仕方がないのだ。
3冊目の文庫本を後書きまですっかり読み終えてから自分の右側にひょいと投げた。肩回りの動きが取れないため、障害となっている肢体より先に本を置くには少し頑張らなくてはならない。その方法のひとつとして肘から先と手首の回転で軽く投げるしかないのである。表紙が折れたらどうしようというささやかな心配も脳裏をちらつくが、文庫本程度の固さがあるのならそう成功率が低い技ではなく誰にでも出来ることなのだ。しかしこの状態はいつまで続ければいいのだろうか。そろそろ私も動きたい。このままあと3冊の本を読んだところで耐えられなくなる訳でもないが、意味もなくするのが寝返りだと私は思う。水分を取るだとか生命維持に必要となる大仰な事はしなくていい、ただ少し体勢を変えたいと思うだけだ。無論許される気配など微塵も感じられないので変わりもせずにハードカバーを読み始める。そんなつもりで左手を出来得る限り静かに伸ばした。
ぴくりと。一言も発さず微動だにせず、数時間前即ち私の読書開始と共に逝去した疑惑すら抱いた私の彼氏と称するべきかもしれない赤司 征十郎はそこで漸くモノからヒトへと戻ってきた。ずっと肩に預けられている頭が上がりはしなかったけれど、首に回されている腕の力が瞬間強くなった。覚醒、したのだろう。当初は冴えていた目も1冊と読み終わるのを待たず瞼が落ちたと思う。とはいえ他では何があろうとお目にかかれない赤司くんの弱みのようなものが凝縮していた訳だから快い目覚めではないはずだ。睡眠による脳の整理が精神的な安寧を齎してくれていれば構わない話だが心など尺で測れはしない。
「………」
数時間ぶりとはいえ、長い静寂の後に久々に聞いた声。いつものよく通る凛々しい声ではなくて、少し細い不安や寂しさが練りこまれたような声が私の耳にこだまする。名前を呼ばれただけで次に読もうとしていたハードカバーの事なんてすっかり抜けて赤司くんへと意識が集中した。
「寝ましょう、赤司くん」
特に言う事も思い浮かばず私が言葉にしたのはそれだけだった。私が支えになっていただろうけれど人にすっかり体重を預けようが無理な姿勢には変わりがない。中途半端に丸まったまま何時間も崩れなかった体も横にして休ませるべきだと考えたのだ。フィジカルとメンタルのバランスが悪いのはまだまだ成長期の身体にとって都合がよろしくない。主将たる彼には何時如何なる時も万全のコンディションでいてもらうように考えるのも私の仕事なのだ。勿論彼の身体であるし無理をするような困った人ではないので彼のしたいようにしていただいて構わないのだけれど、純粋に心配になってしまう。事実私の身体は体幹が全く動かなかったことに対して悲鳴を上げているのだから。
「まだ、このままで」
普段は頼られる赤司くんがどんな形であれ頼っている。それを振り解ける訳はなくてどうしようもなく愛おしい。こんな頼り方をされるのは私だけ。その是非は問われても分からないけれど正しい彼がよくする行為なら当然疑う余地はない。
結局動けなかった私は自分の左側に積んだ本を取り上げて表紙を開いた。本当は分かっていてそれでも疑わずに目を瞑る。取るべき思いやりの形を描きながらそのキャンバスは破り捨てる。このまま私を捨て続ければ私はいつかなるのだろう、赤司くんのファム・ファタール。もうなっているのだろうか。それも愛のひとつなら、許される行いなのか。正しく正しい彼に訊かなければ私にはもう分からない。
手遅れになる前に
(募るのは赤司くんを離したくない気持ちばかり)