非常に静かな空間の中で空気が動いていた。まるで操られたように規則正しく、それが狂いもなく調和しているように。
修練場の中心で、それはのびやかに揺らぎしなやかに身を翻していた。柱の影から様子を窺うように見下ろしていた神田は止まることのないその動きをただ目で追っていた。神田が知らない故郷の装束を身に纏い、薄暗い中を人影が舞う。淀みない連弾が音もなく響く。
神田が修練場を訪れてどれ程経ったのだろう。先客はふわりと布を膨らませてはひょいと身軽に空を切る。いつまでも飽く事なくこのまま夜が更けていく。目を奪われたという訳でもないのに呆と立っていた神田は痺れを切らした。元々気の長い性質ではない。薄布で顔が覆われたように面の見えぬ怪しい相手に遠慮する義理など全くない。彼の目的は観賞ではなく修行なのだ。
存在を気取られないよう無駄のない足取りで舞台俳優の下へ向かう。神田の方など見向きもしない舞い手は同じような動作を反復していた。場合によっては力で退かされるにも関わらず悠長な動きだと取る事も出来る。ペースは全く乱れていない。神田は影と同じ地に足を着け、その背後へと一気に近付いた。並んだ背は頭ひとつ分ほど小さい。小柄な俳優の旋回により目が合わさる
直前だった。


「……無粋な。」


神田の頸を目掛けて扇が突いた。ゆるやかな旋回の勢いはそのままに腕だけが機敏に彼を狙って動く。唐突な攻撃に後ろへ跳び、神田はすぐさま腰に提げた木刀に手をかけた。

「無駄だよ、そんな手合いなど」

どこか幼い声が抜刀を制し、初めてその動きを止めた。遊んでいた衣服はそれに倣い微かな布擦れの音をさせてゆったりと垂れる。体勢を変えず神田は対している顔を睨んだ。僅か光沢を帯びた髪に伏せ気味の顔。覚えのあるシルエットに合う名前を呼ぶ前に神田はさらに後ろへ退いた。扇はどんな変化を経たか身の丈程の大鎌になっている。しかしその大鎌こそ紛う事なく演者の正体だった。

、てめぇ!」
「ただの木刀が敵うものか」

噛み付く声を無視して、演者はすうと顔を上げた。相手を貶すような笑みが広がっている。は神田を見据え着物の袖を翻して構えた。形だけは立派でも彼女にはやる気がまるでなかった。神田は諦めを持って木刀から手を離す。

「……やめろ。お前とやり合っても疲れるだけだ」
「はーい」

無邪気な返事と共に鎌は消える。扇からそれは彼女のイノセンスだったのだ。扇の一閃をかわさなければ痛い思いをしていただろう神田は苦々しく思いながらその様を見守った。
はくるりと回転し、幽玄だった舞とはまるで違う表情で神田と向かい合う。装束は変わらないので人に違和感を与える印象だ。

「鍛錬?好きだね」

声のトーンとは裏腹に無表情のだが、テンポの良い跳躍を見せて場の中心から退いた。神田と合った目は踊りはしない。彼女はそのまま背を向けて神田の下りて来た通路を上って行った。
艶やかに染められた装束がひらひらと色を撒く。振り向きもせず進む後ろ姿は暗闇に沈み色が失われていった。



神田の声に影は立ち止まるものの顔は向けられない。結局そのまま消えてしまった。場を与えられたにも関わらず神田は薄暗い通路を駆け戻る。その足は1本の柱の前でぴたりと止まった。彼が目にしたのは無造作に落とされているあの演者の衣装だった。鮮やかな色は残っていたが、神田には感じる事が出来ない。モノトーンに彩られたその着物を拾い上げるが着られていた跡など全くなかった。
先程の俳優は何だったというのだろう。神田は眉を顰めて舞台を見下ろす。先刻まで自分が見下ろしていた位置と変わらない。舞だけ欠いた光景に気付いた彼は手にした布を強く握り締めた。あれだけ離れていながら、彼が来たことや眺めていたことを正確に察知したのである。

「チッ……」

幼い笑い声が遠くから響いてくるような、そんな錯覚を抱いて着物を舞台に投げ返し、神田は自らも充てられた部屋へと引き返した。


極彩色の透明

それは妖精の誘惑?