甘いものに溺れていたいと思うのは悪しき事だろうか。騒音に塗れたランチタイムに頼んでしまったティラミスを見下ろす。
――だって美味しいんだもの。
蔵馬が聞いたら笑いそうな言葉だ。私とて馬鹿馬鹿しいと思うのだが、釣られてしまったのだからしょうがない。塩味の効いたスープに騙されたのだ。
それにしても騒々しい。甘味を食するにしても店を変えるべきであった。学生の高い声に走り回る子供。親はくだらない井戸端会議ではないか。最初から店選びを間違えたか、いや――
止め処ない後悔の傍らでティラミスはすっかりなくなった。あぁ、美味しかった。結局時間が時間だから学生の行ける所なんてそんなものなのだし、満足出来たからそれでいいのだ。一息ついたらさっさと会計を済ませればいい。
店を出たその足で向かうのは図書館だ。本は読みたいけれど、今日はそのために雨の中歩いてきた訳ではない。そう、雨で傘を差さなくてはならないのは嫌だ。でも、待ち合わせたのだから向かわないのはよろしくない。何故会おうという日に雨なのか。
傘を畳んで水気を切りながら閲覧席を見回すと、見覚えのある影がちらりとのぞいた。
雨に映えるその姿は優雅に足を組んで読書に耽って……いなかった。目は閉じている。開きかけの文庫本が今にもその手から落ちそうだ。

「南野くん」

肩がピクッと薄い反応を示す。

「お待たせ、南野くん」
「……あ、あぁ、さん。おはよう」
「もうお昼よ」

南野くん――蔵馬は本当に寝入ってしまっていたようだった。腕時計を見てまだ時間前だね、とはにかむように笑う。早くからここにいて眠ったのか、かなりぼうっとしている。蔵馬は普段見られないような仕草で頭を掻きながら周りをキョロキョロ見た。少し可愛げがある。

「大丈夫? 起こさない方がよかったかしら」
「いや、ありがとう。すっかり落ち着いてしまったみたいだ」

そう言って彼は上体をゆっくり伸ばす。

「……はあ。とりあえず座ったらどうです?」

立っていても目立つだけだ。蔵馬が鞄を退けて作ってくれたスペースに腰を下ろす。当然の事ながらここはファミレスと違って非常に静かだ。
蔵馬の手にしていた本は私が好きだと言って勧めたものだった。冒頭で止まってしまったようだけれど、借りるつもりはあるみたいだ。この主人公は君に似ている、ぽつりと彼は言った。まだ、少ししか読んでいないくせに。

「実はこれを読むの初めてじゃないんですよ」

私が怪訝な顔でもしていたか、蔵馬は苦笑する。すっかり読んで二度目なんです、と。

さんみたいで愛おしいんだ」
「どういう意味?」
「そのままです」

その笑い方は果たして優しいのか馬鹿にしているのか。読みたい本はないかと尋ねられたので、ない事にしておいた。蔵馬は鞄を置いたまま本を借りにカウンターへと立った。
戻ってきた彼はまだ少し眠そうな様子でそろそろ行きましょうと言った。らしくもないけれど、寝不足なのだろうか。どうせ行き先は私の家だし、一応の目的は学校の課題を終わらせる事にしているから、眠いなら寝かせればいい。
雨は止みそうにない。

「ご飯は食べたの」
「そういえば」

いつから図書館に篭っていたのかは知らないが、ランチタイムはばっちり寝過ごしたのか。これは寝る前に食べるか。

「まぁ空いてもいないですし、いいですよそのくらい」

良くない。この人はそのまま栄養摂取を疎かにするだろう。有り物口に詰め込んでおくか。

さんは?」
「さっき済ませたわ、約束は13時過ぎだったのだし」
「それもそうですね」

蔵馬は子供のように目をこする。本当に、今日は珍しい事だ。
家に向かう途中の店で適当にテイクアウトを頼んで彼の昼食問題は片付けた。道は日の光がないからか肌寒い。

「ねぇさん」

ちらりと隣を見るとやわらかな笑みが前を見ている。傘を差しているのに、跳ねの強い髪の先はしっとりとしている。

「何かしら」
「雨は嫌い?」
「雨は嫌いじゃないけれど、雨の中出掛けるのは好きではないわ」
「そうですか」

たまにはいいんですけどね、と言って蔵馬は控えめに欠伸をした。歩いていても眠気は取れないらしい。
やっと家に着いた頃には肩や腕も少し濡れていた。適当にタオルを引っ張り出して彼を拭い私の水気も取る。柔軟剤の香りがする。

「それ、貸してちょうだい。とりあえず食事よ」

蔵馬は素直に提げていたテイクアウトの袋を渡してきた。くすり、とふわりとした笑いが付く。

「何だか、奥さんみたいですね」
「……何が言いたいの」
「いい奥さんになるんだろうな、と」

まだ高校生なのにそんな事を言われるとはあまり嬉しくない気がする。むっとして見せるけれど、蔵馬は笑うだけだ。褒められているとはとても思えない。

「嬉しくない?」
「えぇ。そうね」
「そうですか。俺は嬉しいですよ」

何故そこで蔵馬が嬉しくなるのか。リビングの椅子に緩く腰を下ろした彼は、ふあ、と間の抜けた欠伸を挟む。初めて足を踏み入れた場所ではないと雖も自宅でない割に寛ぎ過ぎではなかろうか。

「いい旦那さんになりそうね」
「あはは、そうですか?」

キッチンカウンターの向こうに見える蔵馬の口角が静かに上がる。目は眠そうにしているのに、その顔は真剣味を帯びていた。目を合わせるのは躊躇われて手元の作業に戻る。

「……雨、止まないわね」
「止まない雨はないですよ」

部屋の中に入ってくるさあさあという水音を遮るように蔵馬は口をひらく。

「少なくとも来年になりますけど、俺はいい旦那さんになってみせますから」

だから、に言葉が繋がる前に彼は私の後ろにいた。ハスキーな声は耳元に横たわる。

はいい奥さんになってくださいね」

雨で少し冷えた腕が私を抱きしめた。
甘いものに溺れていたいと思うのは悪しき事だろうか?

Dolce