ラビくん、ラビくん。鈴を転がしたような声で、俺をそう呼んでいた少女の面影が過ぎる。俺の頭の中で再生された人間の事など目の前にいても誰にも分からない。今ものんびりしているように茶を飲むパンダジジイでも、そこまでは読めない。
大人しい、というよりは大人びた、落ち着いていた愛想の無い女の子だった。ユウみたいなところがあって、一緒に任務に行くと置いて行かれる事も間々合った。だけど、どこか儚く脆い、強いけれどか弱い彼女。

「ラビくん…か」
「ん? 嬢のことかの」
「げっ、ジジイ聞いてたん?」
「今口にしたのはどこの阿呆だ」
「…なんでもねーさ」

名前なんて言わなくても、俺の事をくん付けするのはだけだった。だからと言ってジジイは慰めなんか寄越さない。何も言わない。もう深入りするなとも、言いはしない。
時計に目を遣ると、そろそろ約束の時間だった。





「コムイー、来たさー」

何でもない顔で、何でもない声で。いつも通りの調子でベレーを取った白服の後ろ姿に呼びかける。振り返った眼鏡の奥は沈鬱だった。

「やぁ、ラビ。」

コムイは無理矢理な笑顔を浮かべる。目の前にある黒い棺に手をかけていた。

「安心してくれ…僕以外は、リーバー班長しか知らないよ」
「ま、何言われようと信じるしかねぇさ。」
「厳しいな」

床一面のそれら以外、ガランとした大聖堂に声だけが響く。明日まで誰も来ない場所。明日になれば床に並べられた全てが灰だけ残して消える運命だ。いや、灰さえも焼き尽くされるのだろう。
たったひとつだけの黒い棺を、恭しくコムイが開ける。

「ラビ、よろしく伝えてね」

コムイに無理を言ったのは分かっている。だけどこの人が好い室長は特例の如く許可をくれて何だかんだと協力してくれている。還す場所を他に選ぶにも使徒だった者は慎重にせざるを得ないだろう――それでもこの契りを破りたくは、無い。

「んじゃ、悪いけどお持ち帰りするさー」
「はは…くれぐれも見つからないでくれよ。」
「任せろって。ここまでの苦労が水の泡…いや、火の内の灰じゃ困るさ」

まるきり不謹慎な言葉かもしれない。それでいい。少しでも『ラビ』でなければ、崩れていってしまいそうだった。瞳を閉じた端正な顔立ちを眺めながら、華奢な体を抱き上げた。





「はー、やれやれさ…全くめんどくさい事押し付けやがって。ただじゃすまねぇさ」

廊下をただ進む。誰もいない、夜の明けきらぬ頃。いつもなら科学班の連中やら任務帰りの奴らがいただろうけど、さすがに今はいない。今日は教団挙げての火葬がある。緊急事態さえ起こらなければ、そのために休む。起きているのはよほど熱の入っちゃった奴くらいだろうか。俺だって、普通なら寝てるはずだ。

「俺だけじゃねーの、こんなんして。あーぁ、面白くねぇな」
「そういう事を言うのだけは得意だね、ラビくんは」

素っ気無い相槌も、適当な生返事も返っては来ない。もう何も感じ取る事すらできない。隣には誰も並ばない。抱えた重みはないはずなのに、何倍にもなってのしかかっていた。

「…もうすぐさ、

延々と歩いてきた廊下も終わりが見えた。最後の扉、地下水路へと出る扉を開けると、繋がれた小舟がゆらゆらしていた。臆せずに乗り込み、舟を留めていた紐を外して漕ぎ出す。いつもなら漕がれている舟を、ゆっくりと、水の流れにのりながら進ませていく。膝枕をするように横たえた体は大人しく微動だにしない。さすがは無愛想なだけあった少女だとでも、褒めればいいだろうか。
地下水路を出ると、濃霧に迎えられた。空が白み始めたのか、周りは濁りながらも白一色。

「そろそろ、いいさね?」

適当な陸地に舟を寄せる。ギィと鳴って陸に接しているうちに舟を繋ぎ止めて、降りる。
何も見えなかった。足元の草の感触や弾かれた水滴で足元が濡れる感覚だけしか伝わってこない。俺はバンダナで留めているからいいけれど、湿気を含んだ髪が伏せられた瞳を覆うように顔へと纏わりつきはじめていた。
現在地がどこかを目視では判断できないが、記憶の道を辿って歩いていく。目的の場所はもう目の前だ。あと数メートルも、無い。

「…着いた…」

静寂の支配するここは、霧で見えにくいが確かに記憶通りの場所だ。

、お前ってホント分からねェさ。ここ…何も面白くねーし」

がよく遊びに来ていたらしい湖。名前も無いこの水溜りが、少女に連れられて俺も一度だけ来た目的地。周りは鳥類がたまに戯れるだけの森で、教団からの距離が中途半端なこともあってか人になんか1人も会いはしない、がつっけんどんにした説明はその通りだと思った。
ここまで来た。あの時の契りはこれで果たせる。
畔で膝をつき、両腕でずっと抱いていた細い体を一旦降ろす。白い指を胸の上で組ませて、顔にかかっていた髪をそっと梳いた。紅かった唇に口付けを1つ。

「……。」

もうこれ以上は何も無い。何をしても、もう意味はない。こういう時に限って、告げる言葉など思い浮かびはしない。そして、俺はそれでいい。十分、幸せだ。

「約束通り、連れて来たさー。アレンならまだしもユウだったら絶対やらないさね」

見せ付けるようにニッと笑って。

「感謝しろよな、。」

軽い体をゆっくり抱き上げる。1歩進みまた膝をつき、そして腕を下ろす。
蒼い髪が水中に広がった。


水葬のキス
「ラビくん、ボクはここで眠りたい。ここだけ、ボクとラビくんの、秘密の場所。」