君は――



目が覚めて周りを見ると部屋はまだ暗かった。時計を引き寄せて目を凝らす。

「…まだ、早朝…」

セットしたアラームは2時間くらい後に鳴る。もう一眠りしようかとも思ったが、それにはあまりにも頭が冴えてしまった。仕方なく身を起こして朝の準備を始めた。
こんなに早く目が覚めるのも珍しい、せっかくなら散歩にでも行こうか。


家を出て住宅街を当てもなく歩く。さすがに町は起きていない。少し足を伸ばして川原まで出、ちらほらと犬の散歩やジョギングをする人を見てはとめどなく溢れる衝動を抑えて歩き続ける。何とも暢気で滑稽だ。自分が何でこんな事を始めたのか早速分からなくなった。制服を着て出てきたから、このまま箱庭学園に行ってしまってもいい。とにかく人のいない平和な時間をぶらつく。
ふわり、と。鼻先を何かが掠めた。
右から左へ、どこか甘い香りが漂う。小走りに走る足音が響いている。
長い髪を2つに束ねた少女が跳ねていた。箱庭の制服の、

さん」
「わっ?」

踏み込もうとしていた右足を、かかとで回転させてこちらを向いた。遅れて髪の毛がふわふわカーブを描く、華麗な光景。
倒れかけた体をまっすぐ起立させて大きな目をぱちぱちさせた、それは確かに同級生のさんだった。

「宗像くん!びっくりしたよ…おはよう。」
「うん、おはよう。僕も驚いたよ」
「どうしたの、だいぶ朝早いと思うけど」
「目が覚めてしまってね」
「そうなの?私もだよ」

ふいと突き出した太刀をさんは平素変わらぬ笑顔のまま避けた。

「急いでいたのかい?」
「まさか。ただ、面白くて」
「面白い?」

高速で薙いだ太刀を切り返し、左手でサブマシンガンを構える。引き金を引く頃には彼女の上体が反っていた。

「こんな時間に出歩かないでしょ」
「そうだね」

勢いだけの後方倒立回転跳びが狙いを外させる。勢いだけあって着地が出来ていないところに右手で拳銃。さんはそのままバランスを崩した。支えが間に合わなかったのだろう、故に拳銃から発した弾は逸れた。立ち上がる前に距離を詰めて、頸。どうかわすか。

「…――!」

どさりと不恰好な音がした。

さん!」

彼女は僕の腕の中できゅうと目を瞑っていた。かわすどころか自滅されるところだった。コンクリートの地面に、さっきの勢いそのままで頭から落ちられたら、僕はどうしようもなくなってしまう。どうしてか、そんな気がする。間接的には殺した事になるのだろうけれど、死なれてしまったら。
大切な友達に、目の前で死なれてしまったら。

「あ、ありがとう…」
さん?」
「…きゃ!?」

そろそろと目を開けたかと思ったら真っ赤になってしまった。口に手を当てて固まり、今度は慌てだす。何とか抱き留めているけれど、どうやって体勢を戻したものか。

「む、宗像くん、ごめんなさい、あの」
「大丈夫だから落ち着いて…」

目の前でさんの表情がくるくる変わる。なんとなく浮かべたような笑顔ばかりしか覚えがなくて、新鮮だななどと思いながらついじっと見ていた。さんがはっとしたように僕の顔をのぞき込んだ。
そんな事しなくても目の前にあるけれど。

「…見つめられたら、恥ずかしいよ」
「え?」
「あ、あの、ごめんなさい!は、放して、大丈夫だから!」
「ちょっとまっ…う、わ」

ずるりと、坂に足が出て土手の上の遊歩道から転がる。ただただ反射的にさんを抱きしめた。草の上を行き敢え無く川に水飛沫をあげた。
気管に水が入りそうになりながら、急いで彼女を水中から引っ張りあげる。僕が邪魔で1人でろくに動けないようにさせてしまった。

「…っ! 〜っ…!!」
さん…!」

情けない話、彼女を放すに放せなくて僕は足を滑らせたのだ。なんて馬鹿なことだ。
さんが犬のようにふるふると頭を振る。空気を含んで揺れていた髪が顔に張り付いていた。

「ごめん…」
「ううん、私こそ。助けてくれてありがとう」
「いや、巻き込んでごめん…」

もう彼女の顔は中途半端な笑顔だった。何事もなかったように普通の顔をして川原に上がる。びしょびしょになった制服が気持ち悪かった。一旦家に帰ろうか。さんはどうするだろうか。ちらりと視線をやると僕の目の前で立っていきなりスカートを絞ろうとした。箱庭のスカートは、改造していないその丈は短い。目の前に立たれてそんな事されようものなら、

「…っ!」

慌てて目を逸らした。

「制服濡れちゃったね」
「あぁ、うん、そうだね」
「学校行く前には乾く…訳ないよね」
「ないだろうね」
「これじゃあ、学校、遅刻しちゃうね?」

わざわざ僕の前に回って来て、彼女は困ったような笑顔を浮かべながら全く困った事のない口調で言った。けらけらと虚仮にするように、はらはらと道化になるように、さんは転がってきた坂をゆっくり上がる。

「たまには遅刻するのもいいね、面白そうだもの」

坂の上で、まだ土手に座り込んでいる僕を振り返りさんが目を細める。くるりと背を向けて、するりと姿を消す。おとなしい割によく跳ね回る子だ。
ようやっと立ち上がって坂を上り始める。さんが今さっき立っていた場所に立っても、彼女の姿は本当になかった。

さん?」

どこにいったものか辺りを見回して周りを見渡して

さん!」

そして彼女は何故か反対側に落ちて頭から血を流しているのだった。何をしたらそうなるのか無論見当がつかない訳ではないけれどあまりにも非現実過ぎる。どんな因果を混ぜ合わせたのか彼女は血に溺れていく。急いで道を横切りさんのもとへと駆け下りる。
抱き上げた体はぐったりしていた。意識を失っている。血液が長い髪に滴り白いセーラーを染めていく。放っておけば死ぬのは自明の理だ。とりあえず救急車を呼ぶ。
防水されていた携帯電話を出して分からぬ事情を話す間もさんの事をずっと抱きしめていた。話し終えてその目を見た時、彼女は笑ったような気がした。




目が覚めて周りを見回すととっくに日が昇っていた。慌てて時計を引き寄せて見る。

「…もう、昼…」

休日だ。何も焦る事はないと分かっていてもつい急ごうとしてしまう。学校に遅れていく事なんてないし遅刻だと騒いだ事もない。ただ、どきりとするものだ。早くに目が覚めたからといって何かする事がある訳でもなかった。何の予定もない休日。何をしようかと首を捻り、散歩にでも出かけることにした。


とうに太陽の輝いている時間だ。町は当然人で溢れている。それでも人の少ない川原まで足を伸ばして、ゆっくりと川を眺めて歩いた。何があるでもない平凡な風景が続く。穏やかな陽気の下で珍しくのんびりと散歩などしている自分に笑いがこみ上げた。それが当たり前に出来てこその“普通”といったところだろうか。考えても仕方のない事を置いて、とにかく人以外に目をやり歩き続けた。
ひらり、と。行く先に影がちらついた。
右から左へ、どこか甘い香りが漂う。小走りに走る足音が響いている。
長い髪を1つに束ねた少女が跳ねていた。ふんわりとした私服の、

さん?」
「うん?」

踏み切る左足でくるりと小さな弧を描いて影はこちらを向く。その機敏な動きに似合わず髪の束はゆったりとカーブを描いた。
後ろに傾いた身体から重心を前に戻してゆっくりと体勢を整えた、それは確かに同級生のさんだった。

「宗像くんだ!こんにちは」
「こんにちは。…どうしたんだい、こんな所で」
「あのね、散歩してたのよ。」
「へぇ、僕もだよ」
「そうなの?」

ふいと突き出した太刀をさんは平素変わらぬ笑顔のまま避けた。

「今猫を見かけて追いかけようと思ったの」
「そう。邪魔したね」
「いいよ、また見つけるから」

腰から引き抜いた拳銃に、彼女は退く事なく手を重ねた。ひんやりとした、否、あまりに冷たい手。冷え切った手。驚いて退きそうになった手をさんは放さない。ただぼんやりと拳銃に視線を落としたまま人形のように動かない。

さん?」
「宗像くんは」

すうと上がった顔は貼り付けられた面のように活きた表情がまるでない。だけど、口角が上がっている。目が細められている。

…さん…」

恐怖を感じたことがない訳じゃないけれど、身体の奥からぞわりと滲んでくるものが、これこそが恐怖なのだと頭の片隅で感じた。効果音をつけるならニコニコしているものの、ふんわりと明るい顔をしているはずのさんからは血の気を感じない。

「宗像くんは何しているのかな?」
「僕…は」
「何していたのかな」

にいぃ。
僕は川原で散歩をしていてさんに会い立ち話になっている。どうやら彼女が聞きたいのはそういう話ではないらしい。では、何を訊きたいのか。
僕は。
違う、僕は。

「…さん…?」

そうだ、彼女は頭から血を流していた。救急車を呼んで、そして?

「むなかたくんは、なにをしているのかなぁ?」

何をしているんだろう。



ハッとすると目の前には白いベッドがあった。カーテンで仕切られた空間の中に居る。ベッドには長い髪を遊ばせたさんが眠っていた。頭部に巻きつけられた包帯が痛々しい。空気に揺らぎを感じて顔を上げると、曇りのない窓が開いていた。風が微かにカーテンを揺らしている。

「僕は何をしているんだい…さん」

弱々しい吐息以外の返事はない。
さんの異常はその性質に起因しているという。彼女は何と何とを混ぜ合わせたのか。何と何に思いを馳せたのか。今僕が落ちた白昼夢さえ彼女によるものなのだろうか。答えは見つからない。
病室は個室だったけれど、非常に重い事態という訳ではないのか、どれくらい意識を失っていたのか判然としないながら僕が傍らに居続けられているので面会に制限を加えられてはいないようだ。検査着のまま横たわっているさんは失血のためか常より白い肌をしていた。安らかな表情であるだけ救われる。

さんは、何をしたかったんだい」

やはり、返事はない。何故僕はさんの隣に座り込んだまま白昼夢に落ちたのか、知っていそうな彼女は何も言ってくれない。

「どうして、あんな事になってしまったんだい」
「何故でしょうね」

笑顔がギィと僕に向いた。

       forgetting